シュウカツ

生まれる前は死んでいたんだから

生まれる前に戻るだけだから

 

 

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これは、MARETUさんの「うまれるまえは」という曲の歌い出しです。

初めて聞いたときは確かにと納得したのですが、改めて考えるとこの理論は全く使えないという事がわかります。何故なら私たちは、立派な自我を獲得してしまったからです。これでは「戻るだけ」とは言い切れません。

 

 

 

今回、死生観を考えるにあたって初めて身近な人が亡くなった時の記憶を掘り返してみました。中学二年生の時です。家に電話がかかってきて、病院にいた母からのやけに冷静な声を聞き、父と電車に乗って病室に向かい、私は祖父の最後を見届けました。

 

病室を離れエレベーターに乗っている時、不思議な感覚がしました。それは、祖父を失ったこの世界は、何も変わっていなかったからです。集まっていた親族は悲しい顔をしていたし、鼻水を啜る音は聞こえたけれど、エレベーターを降りれば周りの人たちは普通の生活をしているし、何より " 私の中の祖父 " にはなんの変化もなかったのです。

 

その時、私は現実の祖父より " 私の中の祖父 " に依存していたことに気が付きました。誰からの心からも消えてしまった時に初めてその人は死んでしまうんだよ、などという台詞はよく聞きますが、本当にその通りだと思います。私の中で、まだ祖父は生きています。

 

 

 

結局、死ぬとはなんなのでしょう。先ほど述べた通り、私が覚えているなら祖父は永遠に生き続けるとしてもいいのでしょうか。

 

ここで反対に、「生」について考えてみます。対抗馬がしっかりすれば、自ずと「死」についても何かわかるかも知れません。でも、生も大分ざっくりしていますよね。性質上、憲法などである程度表面が定義されていますが、それにしても人間は人生を自分の感情抜きでは語れません。そう、頭の中が大事なのです。

 

つまり、生も死も、結局 " 頭の中 " 無しには語れないと思うのです。

 

結論として、私個人は「忘れない限り死なない」という言葉を使ってもいいと思っています。綺麗事やこの手の感情論はあまり好きではないのですが、生の定義もできない以上、死だってこのくらい範囲を広げても誰にも怒られないと私は踏んでいます。

 

 

 

就活中だというのに、終活の話なんていやですね。そういえば冒頭の歌詞について、何にも回収していないことに気が付きましたか?そうです、あれはただ書きたかっただけでした。でも、うみなおしの方が好きです。それから、タイトルはコウカツのパロです(?)懐かしい人もそうでない人も、精神が不安定でない時に聞いてみてください。

 

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