再生ランキング1位

こんばんは。

ラジオ企画を打つくらいならブログ更新しろよと思ったゆりです。

 

ブログとかラジオとか、ちゃんとした話をしなきゃと意気込んで二の足を踏みがちですよね。でも実は、適当に走り始めてもどうにかなるもんなんですよ。だってこの前のKuniko'sビストロなんて、2時過ぎにはおうちにお邪魔していたのに6時ごろのスタート時間まで、記憶があるのはババ抜き一回だけですよ?私はそう思い込んで今見切り発車に飛び出しています。

 

ところで私は今、再生回数イベントに参加しています。特定のプラットフォームで指定楽曲を再生して、期間中の再生回数が多かった上位数名が何かしらのプレゼントをもらえるアレです。私はこの手の効率厨向けイベに弱くて、対象期間が始まってから二代前と一代前、さらに親の昔のスマホを駆使して4端末同時再生をしています。消音だと再生回数に含まれないらしく、部屋の中では一生同じ曲が四方向から流れ続けているのですが、本当に気が狂いそう。人より音に気を散らされがちなタイプなので、マジで全ての作業効率が落ちる。誰だよこんな企画思いついたやつ。

 

そう、この企画って誰が考えたのでしょう(唐突)

確かに私みたいなオタクが必死に再生するから、再生ランキングは例の指定楽曲が常にトップです。(数日前に他のコンテンツも再生回数イベントを開始して、その曲には負けたけど。)ランキング上位に入っていれば、興味のない人の目にも止まって宣伝効果もあります。いい事しかないけれど、でもなんかイベントで稼ぐ再生回数は純粋ではないと言うか。だって現に私は流しているだけで、ほとんど聞いていないし。この曲をエンドレスリピートしているせいで、この曲と同時リリースされた他の曲は全く聴けていないし。なんなら使命感だけで今聴いているから、この曲少し嫌いになりそうだし。運営サイドからすればいいとは思うけど、歌っている歌手本人や作曲した人、この曲の制作に関わった人たちには失礼だなあと思う。そんなこと言ってもプレゼント(推しに名前を呼んでもらえる動画)はもらいたいので、再生し続けるんですけど。ごめんね。

 

イベント期間も残り1日です。がんばれ私!がんばれスマホ

それにしても昨日のご飯は美味しかったし、あの空間は最高だったなあ。

譲れないもの【変更版4.16】

みんなと大学の話をしてて、私のメンタルが羨ましいと言われることがありました。


たしかにみんなには、転学科をすること自体をはじめ、大学に友達がいないこと、二個下の子達と一緒に授業を受けていることが想像がつかないのかもしれないし、もし自分がそうなったらきついかもっていう思いからの言葉なのかも知れません。

そりゃそうだわ、私がイレギュラーでマイノリティなのだから。

一回逆の立場になって考えてみ?もし俺が転学科させられてたとしたら、絶対にきついと思われてたと思うか?って話なんです。(?)


実際私は大学に友達いないし、でも周りの子達はちゃんと仲良くなってて泣いてるし、お昼ご飯ぼっちすぎるし、大学では私語を話すことはほぼないです。

学籍番号が他の看護の学生ともちょっと離れているせいか、先生方にも、あれ?あぁ、みたいな反応されることもしばしば。


前の学科でも、友人と呼べるような関係の人は数人で、ノリが合う人はほぼいなかったと言っても過言ではありませんでした。転学科することを自分の口から伝えたのも3人くらいだったかな。当時の唯一の楽しみはサークルでしたがそれももう過去の話。

 


最寄駅から徒歩30分。学校の中でも場所によっては3Gになるようなせんげん台という陸の孤島。そんな環境の中なんで6年間も通う決意をしたか、決意ができたか。


もちろん根底には小学生からの夢である看護師になりたいというものがありますが、夢だけで乗り越えられるような強い意志があるわけではありません。

 

 

ではなぜか

それは心の支えがあったからです

心の支えとは、もちろんお前らです。

 

 

友達いない!けどスマホを開けばTwitterを開けばお前らがいる!ならいいか!

昼ぼっち!けどスマホを開けばTwitterを開けば以下同文!

今日大学で言葉を発した覚えない!けど以下同文!!!!

めちゃくちゃスマホ依存症みたいな発言で我ながら草だが、


お前らがいればお前らがいないところでも私は最強なのです。

 


来年再来年と、TLの大多数が卒業したのちにどうなるかは誰にもわかりませんが、

とりあえず今現在何とかなってるし、まぁ大丈夫だろうと信じています。


私って、自分の生死に関わらないことに対してはかなり楽観的なんだなって最近わかりました。というか、転学科のおかげで心に余裕ができたような気がします。ただ自分が大人になっただけかな?ちょっとそこはわからないけども。

まぁ、生きてるだけで丸儲けなのです。略して生き丸とでも呼びましょう。

そこらへんに関しては自分の性格や転学科したこと、支えてくれたお前らに感謝感激雨アラレです。

 


お前らのおかげでこうしていられるのに、それをお前らに褒められる、

なんて良いスパイラルでしょう➰


さんきゅーTL、ふぉーえばーTL、

びーふぁみりーTL

 

歌詞不可視

心は誰にも見えないのだから

見えるものよりも大事にするといい


back numberの水平線という曲の歌詞の一部です。

 


今回、譲れないものを考えた時、信念なのか、はたまたものなのか、?

自分で自分の中を探るような感覚に陥りました。


人って流動的であると思ってて、ここではこう思っても違う場面ではこうやって考える、みたいなことしょっちゅうじゃないですか。

その中で一本筋が通った人間であったならよかったんですけどそうではなくてですね。

そんな、ま〜がりくねった〜道の先に生きている私の譲れないもの。

自分自身なのではないかと思ったんです。

 


おー!ここで宮本選手、大きく出ましたねー!という感じではありますが、

たとえば私は絶対1人の時間が大事です。ないと死にます。譲れません。

たとえば私はマイペースでやっていくのが好きで人に指示されてばかりだとその人を殺しちゃいます。

たとえば私は自分のやりたいことをやりたいしやりたくないことはやりたくないです。

 


何を普通のことを言っとるんじゃと思うけど、結局のところ人って自分自身の生きやすいような生き方に自然になっていくものじゃないですか。

私は常に自分のやりたいほう、自分が楽な方、自分にとってっていう考え方をしているような気がしました。なんだかんだ言って自分が好きなんです。自分が可愛いのです。

 


対人関係においても、一緒にいて心地よい人と一緒にいたいし、合わない人は結構切り捨てというか別にいいやというドライな感じできたし、いろんなことにおいてやりたいことを選んで、やりたい方へ歩いてきました。もちろん道中やりたくないこともしかたなくやってきたけど、なんだかんだで好き勝手生きてきた気がします。特にここ1年間は。

 


それによって今まで決して少なくない人に迷惑をかけてきたこともあるでしょう、嫌われたこともあるでしょう、今もどこかで恨まれてるかもしれません。

でも私は結構性悪説で物事を考えているというか、人と仲良くなる過程を築くまでに、どうせこの人は友達が私以外に五億人いて私と仲良くなる気なんてない、この人とは仲良くなれないとか思ってから始まるのでそこら辺はもうもはや気にしてないのです。たぶん人間関係や交流の広さに重きを置いていないのでしょう。もちろん友達が多いに越したことはないかもだけど。


話がそれましたが、結局のところ私は自由が好きなのです。自分で選択するのが、選択するにおいて思考することが好きなんです。客観的に見るとまだまだ縛られていて、誰かのお世話になりっぱなしで、誰かの掌の上で踊らされている人生なのかもしれないけど、自分自身が楽しけりゃなんでもいいのです。

好きに生きて行こう、好きに考えて行こう。

 

 

 

冒頭の歌詞を全く回収しないままきましたが、あの歌詞なんとなくいいなーと思って書いてみました。

見えるものを大事にするのは当たり前だけど、心をはじめとする見えないものを大事にしようねっていうことで、自分の気持ちややりたいことを大事にしましょうね、と雑に回収しておきます。

置き手紙

 

 

今日も今日とて、飲食店畜生アルバイトとして身を捧げ一日を終えました。

ホールスタッフとしては今の職場でしか働いたことがないので比較対象がありませんが、土地柄なのか、私の店ではお客さんにセクハラまがいのことを言われたりされたりすることがまあまあよくあります。

「お姉さんいくつ?」「かわいいね」「連絡先欲しいな」くらいのやりとりはよくある話で、年齢の話から関係ない話題に話を広げるレパートリーも増えたし、連絡先の交わし方もだいぶ手馴れて来ました。

そう言った会話は、向こう側もある程度社交辞令というか、適当に店員に絡んでいるという気持ちでしかないことがわかっているので、こちらとしてもそこまで極端に気を悪くすることはありません(慣れもあると思うが)。

 

しかし今日の客は本当に不愉快でした。

男性4人組で、どうやら常連客。私の担当卓で、最初に伺った時からどちらかというと横柄な、嫌味な言い方をすると通ぶった感じの方だったので、こちらもあまり下手なことを言わないようにしようという気持ちで対戦開始。

 

長時間その卓で話をする時間があり、適当に話を振られることに対して対応していた最中。

「お姉さんちょっとマスクとってみてくれない?」

これは今思えば正当なセクハラとして受け取っても良かったと思うし、適当に断る術もあったかと思いますが、その場でニコニコ対応していた私はマスクを一瞬外しました。なんか、伝わるか分からないけど、外してと言われて客が私の顔に注目している中で外すその流れは、ただマスクを取るという行為よりもかなり重たい羞恥を伴うものでした。

そしていざ外した私の顔面を見ると、2秒程度の間が空いたあと、

「思った通りだね」

想像してみてください。4人が自分の顔下半分を見ている中でおそるおそるマスクを外し、それから2秒の静寂が流れる瞬間を。

(思った通り)かわいいね というポジティブな意味で言ったつもりだったのかも知れないけど、もう正直言ってそこでどんなリアクションを取ってももうダメなんですよね。褒めても貶しても空気はよくわからん感じになる。

この現象を、マスクハラスメントと名付けたい。

そんなこんなでマスハラを受けた私ですが、客に容姿について褒められたり何か言われたりすることはそこそこある中で今日ここまで私が不快に思った理由は、「完全に女を見下している前提でのセクハラや褒め言葉」であることを感じてしまったからだと思います。

別に私は自分の身を買われて働いているわけでもなく、ただ料理を運ぶ機械として(というのは言い過ぎだけども)働いているので、どうしてそんな中でこんな性質の不快感を感じなければいけないんだろうか。

 

その後、ある料理についてその客から質問がありました。

私の知識の範囲で解決出来る話だったのでその場で対応したのですが、どうにも納得しない様子で急に機嫌が悪くなったので、男の社員に通しました。

社員は私がした説明とほぼ全く同じ説明を客にしました。

すると、まるでオードリーのネタの最後のようにアハハハハと和気あいあいと会話が進み、さっきの私の説明はなんだったのか、マレー・インドネシア語でも私は喋っていたのかという感じでした。

その時点で改めて私は舐められているなと感じながらも、露骨にその卓から離れる訳にもいかず接客を続けます。

 

ラストオーダーの時間になりました。

客は私におすすめの料理を聞き、私はある食事を提案しました。すると、

「さっきは信用できなかったけど、今度こそお姉さん信用するね」

 

 

ハートランドの瓶で殺そうかと思いました。

あなた方が私を信用しようとしまいと勝手なのだが、聞いといてその言いようはなくないか。ちょっと人のこと舐めすぎじゃないか。

あやうく人をひとり殺してしまうところでしたが、報道されたら店に迷惑がかかるのでやめました。

 

ざっと挙げるだけでもこんな感じで、怒りと言うよりも不快感を覚えるようなタイミングが他にもちらほらあったのですが、私が大きな声でNOと言えない理由は私の気が弱いからではなく、店の従業員としての地位があるからです。

最近のうちの店のクチコミはひどいものです。人手が足りないのもあり、常にサービスが間に合わずボロクソ書かれていることもしばしば。そんなことわざわざ書かなくてもってことまで書かれることもある中で、こんな小娘がセクハラに嫌悪感を示そうものならどんな書きようをされるかわかったもんじゃない。

私が暴れ回って私が怒られるだけなら人の子ひとりふたり粉砕しても問題ないのですが、会社に所属しているというだけでこんなにも屈強な私さえもが言葉をつぐむことを強いられてしまう。

 

だけどこれってもう、いくら社会の構造が変化しようと、主観として「女は無下に扱っていいもの」という思想を持つ人がいる限りどうにもできない状態であると思うんです。

 

だからどうするかというと、そのような殿方を全員殺すことに決め、私は今日出家します。

 

また会う日までご達者で。

 

 

 

 

 

 

 

シュウカツ

生まれる前は死んでいたんだから

生まれる前に戻るだけだから

 

 

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これは、MARETUさんの「うまれるまえは」という曲の歌い出しです。

初めて聞いたときは確かにと納得したのですが、改めて考えるとこの理論は全く使えないという事がわかります。何故なら私たちは、立派な自我を獲得してしまったからです。これでは「戻るだけ」とは言い切れません。

 

 

 

今回、死生観を考えるにあたって初めて身近な人が亡くなった時の記憶を掘り返してみました。中学二年生の時です。家に電話がかかってきて、病院にいた母からのやけに冷静な声を聞き、父と電車に乗って病室に向かい、私は祖父の最後を見届けました。

 

病室を離れエレベーターに乗っている時、不思議な感覚がしました。それは、祖父を失ったこの世界は、何も変わっていなかったからです。集まっていた親族は悲しい顔をしていたし、鼻水を啜る音は聞こえたけれど、エレベーターを降りれば周りの人たちは普通の生活をしているし、何より " 私の中の祖父 " にはなんの変化もなかったのです。

 

その時、私は現実の祖父より " 私の中の祖父 " に依存していたことに気が付きました。誰からの心からも消えてしまった時に初めてその人は死んでしまうんだよ、などという台詞はよく聞きますが、本当にその通りだと思います。私の中で、まだ祖父は生きています。

 

 

 

結局、死ぬとはなんなのでしょう。先ほど述べた通り、私が覚えているなら祖父は永遠に生き続けるとしてもいいのでしょうか。

 

ここで反対に、「生」について考えてみます。対抗馬がしっかりすれば、自ずと「死」についても何かわかるかも知れません。でも、生も大分ざっくりしていますよね。性質上、憲法などである程度表面が定義されていますが、それにしても人間は人生を自分の感情抜きでは語れません。そう、頭の中が大事なのです。

 

つまり、生も死も、結局 " 頭の中 " 無しには語れないと思うのです。

 

結論として、私個人は「忘れない限り死なない」という言葉を使ってもいいと思っています。綺麗事やこの手の感情論はあまり好きではないのですが、生の定義もできない以上、死だってこのくらい範囲を広げても誰にも怒られないと私は踏んでいます。

 

 

 

就活中だというのに、終活の話なんていやですね。そういえば冒頭の歌詞について、何にも回収していないことに気が付きましたか?そうです、あれはただ書きたかっただけでした。でも、うみなおしの方が好きです。それから、タイトルはコウカツのパロです(?)懐かしい人もそうでない人も、精神が不安定でない時に聞いてみてください。

 

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コロナ禍で得たもの、失ったもの

 

「コロナ死ね」という言葉が嫌いです。

 

言いたいことはわかるけども、身も蓋もない。 死ねという言葉を発したとてはっきり言ってコロナウイルスは撲滅しないし、どうも投げやりな感じがしてしまう。


じゃあこのコロナ禍への怒りをどう発散しようという話だが、私はコロナ禍によって得たものも少なくないと感じています。月並みな言葉だけども、怒りや絶望に身を任せるのではなく、その中でも光を探すことに精を出そうよっていう話。

一応断りを入れますが、ここではコロナ禍によって職を失った方や親族を亡くした方の話は一旦別物とします。


私が1番失ったと感じているものは、対面での学校生活。もちろん、中高生も含め。

私自身正直家に毎日いることになんの不満も感じてなかった部分もありますが、やっぱり一昨年以前の写真を見返したりするごとに「もうこんなこと大学生の間に(というか人生の間に)できないだろうなぁ」と思うばかり。学校で駄弁ったり、テニスしたり、合宿所でブルーシート敷いて酒飲んでる時が1番楽しかったのに。嘘をつきました、1番楽しいのはお前らと過密してる時でした。


そうなんです。私が1番楽しいと思う瞬間って、過密や正体隠匿ゲームをしている時やご飯食べてる時。つまり、この1年間全く欠けることのなかった要素で私の幸福は成り立っていることに気付かされました。

でも、これは私の性格などもあるとは思うけど、それと同時に自分の順応性、限られた条件の中で楽しさを見つけようとする向上心があってこそ、毎日笑って過ごせていた部分が大きいと思ったりもする。


私がコロナ禍で得たものといえば、圧倒的に時間が増えました。蓮田で暮らし、料理を練習しました。中国語の勉強をしました。遠くにいる相手とのコミュニケーション手段を覚えました。


冒頭で言った「コロナ死ね」という言葉は、かなりよく頻繁に耳にします。

そんなこと言わずに楽しいこと探そうよって言うのがものすごい綺麗事なのは十分承知だけれども、これに関しては不平不満を言って解決することは正直何にもないからね。

与えられた環境をいかに充実させるかというのは結局のところ自分次第なわけだし、不平不満ばかりよりも明るくいた方が自分も周りもいいよね、と思うわけです。


色々良いことを言った風だけども、このコロナ禍の私の生活を支えたのは間違いなくお前らだし、私は結構この1年は濃密で充実していたとさえ感じているよ。

逆に、これから色んな活動が活発になったとしても、繋がり続けていられる仲間でいてほしいと思っています。コロよろ(コロナが落ち着いてもよろしく)。

 

 

 

正義のネットストーカー

題:コロナ禍で気づいた「自分の歪み」について(800字)

指定ワード:グローバル・ひとりよがり・虚心坦懐

 

  

 

「タイプです!自粛期間ヒマで…よかったら話しませんか?笑」

その何の特徴もない1件のメッセージに私はすぐさま反応した。

「ありがと!嬉しいです」

いかにも好意的な絵文字で媚を売る。相手の求めている女の子像を壊さずに会話を続けるのがポイントだ。

 

 裏垢界隈をご存知だろうか。知る必要もない界隈だが、虚心坦懐に聞いてほしい。ツイッターには自撮りを載せて「いいね」を稼ぎ、承認欲求を満たしている人がいる。裏垢界隈はその中でも、刺激の強い写真を載せる人の集まりを指す。胸や脚を強調した写真に煽るような文を載せ、多くの男性からDMをもらい個人的なやりとりを行う。こんなのはコミュニケーションではなく単なるひとりよがりな自慰行為だ。わかっている。わかってはいるが、私の裏垢には100人以上のフォロワーが存在する。アカウントを開設して1日も経たずにこの量だ。本人かも不明な1枚の写真で10人以上の男からメッセージが飛んでくる。中には海外の男性も多く、英語・中国語・アラビア語が散見されたのは印象的だった。エロのグローバル化は凄まじい。

 

 基本的にメールには反応しないのだが、冒頭の「ぽむきちさん」にはすぐに返信した。ぽむきちさんはほんの2ヶ月前にアカウントを開設したばかりであり、自分の自撮りは載せず女子にリプライを送るスタイルらしい。語尾には決まって「DMいきませんか?」と付けており、2人でのメールがしたいのだとわかる。いいね欄には髪の長いグラマラスな女性の写真が並んでおり、好みもわかりやすい。数回やりとりを重ね、ついに誘いがきた。

 

「今度の土曜、遊びませんか?コロナ怖いし、どこか屋内で!」

涙が止まらなかった。絶望と怒りで震える手を必死に抑えながら彼氏にLINEを送る。

「これあんただよね?」

 

 私は歪んでいた。彼氏の浮気の証拠を得るためなら、自ら裏垢女子なることすら厭わないのだ。